ヨーヨーアカデミー「ヨーヨー近代史 絶体絶命のヨーヨーを支えたもの。UTYJ~JYCC編」

以下内容まとめ

【現在まで続く日本の競技会の歴史のはじまり】

第一期ハイパーヨーヨー後、ヨーヨー、プレイヤー、販売店様々なものが無くなった中、無くならずに今まで続いているものがある

【競技会】

日本の競技会シーンというのは、プレイヤーとしても、競技の運営団体としても世界トップクラスで、世界をリードする存在。

しかし、最初から日本は世界をリードする存在だったわけではない。

様々なことを経て、小さな集まりが、大きな力に変わった。

【今回の出典】

UTYJホームページ
JYCCホームページ
代表:三居の話
その他有識者の話

【UTYJとは】

今まで続く競技ヨーヨー団体の初めの名前
UTYJ→JYCC→JYYFと名前と体制を変えながら続いている。

【三居弘典とは】

ヨーヨーカンパニー代表
UTYJ創設メンバー
その後続く団体すべての中枢
日本ヨーヨー連盟代表理事(2020年現在)
世界ヨーヨー連盟オーガナイザー

【はじまりは1998年】

第一期ハイパーヨーヨーがブームの時代。
当時はヨーヨーをやっている人の多くが一人ではなくチームや認定店など、ある程度人が集まってやっていることが多かった。

【富士ヨーヨーフェスティバル】

UTYJ発足に大きな役割をもったイベント
第一回は98年10月
第二回は99年5月

静岡県「御殿場ピノキオ」主催
ワークショップ+キャンプという、色々なヨーヨープレイヤー同士の交流会がメインになっているイベント。
全国のチームのプレイヤー同時が交流し、各地の様子やいろいろなプレイヤーやチーム長と交流・情報交換を行う。

第一回は交流会、第二回はワークショップがメイン。

【各地のプレイヤー同士の絆が生まれる】

この二回で出会い、交流を深め、寝食を共にし、絆が生まれていく。

99年、日本のヨーヨーはブームが去りつつある状況。
世界大会後再びピノキオに集まる。

【次は自分たちがやっていかなきゃいけないんじゃないか】

ブームも去りつつある中、他の業務もあるピノキオさんにおんぶにだっこではいけないと感じた。

そのころには色々なチーム長同士が関りが強くなっていたこともあり、その中で愛知TECの代表ミイと静岡SSSの代表で「自分たちでもう一度富士ヨーをやらないか」という話になる。

「今度は大会もやりたいよね」という話から大会も自分たちでやろうよ、となり「富士ヨー+大会」という方針でイベントを行うことに決まる。

【UTYJ (日本チーム連合)01】

→United Teams of Yo-Yo Japan(日本ヨーヨー連合)

全国には様々なチーム、グループがあるのが基本になっていた。子どもが多かったが取りまとめる代表とともに行動することがほとんど。
その全国の「チーム」をつなぐイベントとして開催されたのが「UTYJ(日本ヨーヨーチーム連合)01」
これが「UTYJ」の始まり。

チーム単位で参加するイベントで、富士ヨーヨーフェスティバルを踏襲し、合同練習会に大会をプラス。

振り返ると今の全国大会の始まり、ということで「全国大会」になっているが、この時点では「全国大会」というくくりではなかった。

【UTYJ01 4つの信念】

1.自分たちで主催をすること。
→「ヨーヨーに関わる人」達の手で主催をしていくこと。

2.明確なルールを決めて、自分たちでジャッジし、詳細な結果・得点を発表すること
→これまでの大会の多くはルールや結果すら詳細が公開されないこともあった。

3. よりよいルールを考え、世界大会へフィードバックすること。
→大会として、ルールとしての結果を出す。

4. ブームやプロモーションが終わっても続けていけるようにすること。
→すでにブームが終わることを見越して、その先を見ている。第一回の時点でUTYJ「01」

【1999年12月25日(土)~26日(日)に第一回UTYJ大会が開催を決定】

参加、来場合わせて50名程度。ステージも小さく、暗幕も無い、手作りの大会。
当時既に収束していたバンダイのプロモーションの大会の動員数に比べてもはるかに小さな規模。

細々ながらも自分たちでもできるじゃんという手ごたえを感じて幕を閉じた

【ヨーヨーの日は何も無い】

2000年4月4日に近い日にヨーヨーの日にちなんだアクションはどこからもない。
自分たちでヨーヨーの日のイベント開催を決意。

【UTYJ02】

第二回大会を2000年4月1日(土)~2日(日)開催。
前回の噂を聞いて、前回をはるかに超える100名が参加。

2000年夏。世界大会も終わり、日本人は全部門制覇という結果を出しながらも、ブームが去りつつある日本。

【第6回JCSでバンダイのプロモーションは終わる】

最後のJCS、第6回ファイナル。
会場では今までヨーヨーを続けてき、交流が深まった仲間たちと「これでおわりか」「さみしくなるね」「また何かの折にあえたらいいね!」みたいな会話がなされる。

【もしかしてUTYJがなくなったらヨーヨーの歴史は終わるんじゃないか・・・】

自分達以外に、同じレベルでヨーヨー未来を考えて活動している人たちはいないのではないかと考える。

【UTYJ03】

この回から名古屋大会、東京大会と二地区開催になりその上位がチャンピオンをかけてナショナルに臨むというフォーマットに。
JCSファイナルや世界大会に出場するような選手も多く出場。実質日本一を決める大会に。
JCSが終わり、日本一を決める大会はこのUTYJではないか、と選手も徐々に意識しだしたんですね。

【トラブル多発】

普通の高校生や大学生、社会人の領分を超えるようなトラブルが細かく発生するようになる。

【世界大会にナショナルチャンピオンシードができる。UTYJのチャンピオンが日本のシードに】

2001年世界大会より各国のチャンピオンがシード枠として決勝に進出できるようになる。
これは世界大会運営がUTYJを、全国大会にふさわしい大会だと認める。
名実共に「日本一を決める大会」に。

【運営メンバーの刷新。UTYJからJYCCに】

第4回大会を前にして、それまでUTYJの代表として活動しているメンバーがそれぞれ進学、就職など、環境の変化で活動を続けていくことが困難に。
すでにUTYJの活動を一緒に支えていた若手を中枢メンバーとし、運営メンバーを刷新。
名実ともに日本一となる大会を運営していたUTYJは名称をJYCCに変更。
2003年の地区大会からはWJ、EJ、JNと名前を代えて開催。

このころには代表の三居が世界大会の競技運営チームとも連携をとるように。
ルールや体制について意見を交わし、日本での運営状況を世界大会にフィードバックすることも多くなっていく。

【日本が世界大会のルールを作成】

プレイヤーのレベルが向上し、従来の「X部門」という枠からスタイルをピックアップし、5スタイル制に
日本の運営が尽力し、功績が認められルール制定・運用を担当。
2020年現在まで続く5スタイル制となる。

次回、ハイパーヨーヨーが再始動。

 

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