以下内容まとめ
ハイパーヨーヨーとは
バンダイが97年にプロモーションを始めた大ヒットトイ。基本はOEMと言って、元になるヨーヨーをメーカーなどと契約し、統一してBandaiブランドとしてリリース。
つまりバンダイからリリースされているヨーヨーを「ハイパーヨーヨー」と呼ぶ。
当時1000万個を売り上げたメガヒットで、余波は世界中にも起こり、累計2700万個に及ぶと言われている。
日本のブームはコカコーラヨーヨーやスケバン刑事などあったが、2019年現在、日本においてヨーヨーのプロモーションとかの中枢に関わっている人のほとんどが、本格的に競技のヨーヨーに取り組みだしたのが第一期ハイパーヨーヨー。つまり、今の日本の特に競技ヨーヨーの始まりはこの第一期ハイパーヨーヨーといっても過言ではない。
今回の出典
リワインドTVゲスト中村名人回
当時のバンダイやJYYAのホームページ
その他有識者の話を参考にしています。
中村名人とは
第一期ハイパーヨーヨーのアイドル的存在。当時大ブームを支えた人。ドラマとかテレビ番組、雑誌、イベントなどひっきりなしにメディアに取り上げられた。
大ヒットの要因
メディアを巻き込んだ大規模プロモーション
テレビCMやコロコロコミックはもちろん、TVや雑誌など様々なところで取り上げられ、連鎖的にヒットしていった
今までヨーヨーのイメージを覆すプレイが可能
それまで基本的には上げ下げしかできないおもちゃのイメージだったヨーヨーに対して
空転して様々なトリックができる、高級感のある丈夫なボディにスプールやオートリターンという機能、アメリカから輸入!など様々な条件がそろった新しいスポーツとして話題に。
トリックの認定制度
認定を一定数クリアすると景品がもらえた。
認定は全国のおもちゃ屋さんなどで受けられる。
THPという緑のシャツのパフォーマンス集団の存在
海外からTHPというパフォーマンス集団が多く来日し、パフォーマンス。
多くの小・中学生が憧れて、THPのパフォーマンスを見るためにイベントに足を運ぶ。
はじまりはハワイのカイト(凧)のショップ
HPK(Hign Performance Kite ハワイのスポーツカイトのショップ)のオーナー アラン・ナガオ氏がプロモーションを始める。
当時の東京おもちゃショーをきっかけにバンダイと契約。
97年春バンダイハイパーヨーヨーのプロモーションが始まる
万を持してのリリース、プロモーション開始前の時点でじわじわと人気が上がっていたヨーヨー。バンダイが一気にプロモーション始めた。
当初全く売れない
店舗レベルではある程度売れてたが、期待されるほどの大ヒットにならず。
全米チャンピオンがパフォーマンスにきても、お客さんが3人ぐらい、ひどいときはほぼ0人のときも。
夏休み(お盆前)全国各地でTHPがデモや大会の草の根活動を行う。
50人ぐらいのTHPが全国各地でプロモーション。
流れが変わるきっかけ
97年10月開催第一回ハイパーヨーヨー全国大会(JCS)開催。
動員総定数三千人のイベントに想定をはるかに超える1万4千人が集結
用意した販売用ヨーヨーは全然足りず、軽いパニック状態。
チャンピオンは全国区のニュース番組に度々取り上げられる。
→ここから大ヒット
世界最大といわれるヨーヨーブームが到来。社会現象に
毎週末(時には平日)全国各地でヨーヨーのパフォーマンスやミニコンテスト。THPも多数日本に来日。
全国各地のおもちゃ屋さんでヨーヨーが不足。
各店舗で入荷日を告知したら長蛇の列。
エピソード97年冬ハイパーレベル解禁
認定制度の最後の壁「ハイパーレベル」が解禁
クリアするとプロスピナーとして認定され、バンダイから「プロスピナーライセンスカード」をもらうことができた。
→「ヨーヨーのプロの資格をもっている」といわれてるほとんどがこのプロスピナーのこと。
当時一瞬で数千人が合格。最終的にはハイパーレベルの最難関「ダブルループ(ツーハンドルーピング)」をクリアした人は1万人以上。なのでこの日本にツーハンドループができる人は1万人以上(検定を受けていない人を含めると数万人ほど)いることになる。
→クリア景品のプロスピナーファイヤーボールが全く足りず、他の景品用に作っていたものが他国からかき集められた。この時のクリア景品で数が少なかったものが今でもレアものとして話題に上る「プロスピナーファイヤーボール 筆記体ロゴ」などである。
そしてこのころ超速スピナーというマンガが連載開始。ブームは加速。
ピーク:98年4月4日 第二回JCSファイナル
第二回JCSファイナル千葉幕張メッセでは4万人がヨーヨーのために集結
THPジャパン発表。
同日JYYA設立
98年夏世界大会開催
ラスベガスで開催。HPK主催。
このころはまだIJA(ジャグリングの世界大会)の一部門として開催されていた。
シングルハンド部門で鈴木良一さんが優勝。日本人初の世界チャンピオン。
→この98年世界大会以降、日本人が世界大会で優勝しなかったことは1度もない(2019年現在)。
進化していくヨーヨーの世界
ヨーヨーが大ブームで人も増えて、システムもプレイヤーに合わせて進化していかないといけない。
98夏地区大会
国内公式大会初のフリースタイルコンテスト(規定曲のみ)
98年9月第一回JYYA全国大会開催
国内初の、世界大会に近いフォーマットでのフリースタイルコンテスト。
98年10月第3回JCSファイナル幕張メッセ
チームハイパーバイパーがパフォーマンス。オフストリングプレイが国内初登場。
99年1月第4回JCS地区大会
99年4月4日第4回JCSファイナル幕張メッセ
オフィシャルトリック99発表
→難度がかなり上昇。しかもベーシックトリックは固定軸限定。
最大規模の世界大会といわれる99年ハワイ世界大会
初となるヨーヨー単独の世界大会。ハワイホノルルコンベンションセンターで開催。
ツーハンド部門で98年準優勝だった永瀬選手が優勝。日本人初のツーハンド部門世界チャンピオンに。
ブームの収束
99年8月地区大会
→このころにはかなりブームは落ち着き、その影響もあったか、徐々にヨーヨーを辞めていく人が増えていく。
99年11月全国大会静岡駿府公園
99年12月 UTYJがスタート
→UTYJについては次回
オフィシャルトリック2000
→今度がオフィシャルトリック99が難しすぎて挫折する人が続出。簡単なトリックに変更
2000年夏世界大会
一気にブームが失速した影響で世界大会が開催されない / また何かの大会のイベントでの開催になる危機
→アメリカのショップオーナーグレッグ氏が主導になって開催。スコールの影響もうける屋外のテント下という悪環境だったが、これが無ければこの後の世界大会につながらなかったかもしれない。
初めてX部門が開催。三居選手が優勝。
シングルハンド、ダブルハンド、X部門、チーム部門と日本人がチャンピオンタイトルがかかったフリースタイル競技を全部門制覇。
ブームの終わり
2000年7月地区大会
2000年 6JCS 9月24日(日)千葉県 TOKYO-BAY船橋ららぽーと第10駐車場
【第一期ハイパーヨーヨーのプロモーションが終わる】
ブームが去った後
情報が手に入らない
メディアへの露出がなくなり、コロコロコミックからも情報が消え、ヨーヨーの情報を手に入れる手段が激減。どこへ行ったらヨーヨーができるのか、ハイパーヨーヨー以外のヨーヨーが存在しているのかを知ることもほとんどできない状態。まだインターネットは普及しきっておらず、全員が手軽に情報が手に入らない状態になってしまった。
ヨーヨー・グッズが手に入らない
おもちゃ屋には売れ残ったヨーヨーが溢れるため新しいものの入荷はない。入荷元もない。輸入品として仕入れてくれるところもない。瞬間的にヨーヨーを手に入れようと思っても続けるのに必要なメンテナンス用品やグッズも無い。そこまで熱意のあるわけじゃない人がネットで買うのはまだまだハードルが高い時代。
「ブームだったもの」に対する冷たい反応
流行したからこそ、流行が終わったものに対する反応が冷たい。
→結果:プレイヤーが激減
ピークの数百~千分の一規模。どのクラスにも数人はやっている人がいたヨーヨーを、その学校誰一人やっていないぐらいの感覚
→今振り返ってみてもこの時期が底の底。
ブームが残したもの
競技ヨーヨーの存在の周知
すごいヨーヨーがこの世にはあるんだ!と多くの人が知った。
たくさんのヨーヨー経験者
そのヨーヨーを見て、やってみよう!と多くの人が感じ、少しでも触れた人は多いし、その中から今でも第一線で活躍する人もいる
ヨーヨーの可能性
ブームの時代にもヨーヨーの競技はすごい速さで進化した。ヨーヨーの遊びからや取り組む姿勢、仲間の大切さなどヨーヨーを通じてたくさんのものを得ることができるんだと多くの人が感じた
熱意を持った人たち
たくさんの人がヨーヨーに触れたおかげで、ヨーヨーそのものをもっとこんな風にできるかもしれない!とか、ヨーヨーでこんなことができるかも!とかたくさんの人がヨーヨーにのめりこめた。
今もヨーヨーは進化し続けている
この強い熱意を持ち続け、行動し続けた人たちのおかげで、浮き沈みがありながらも今もヨーヨーの世界がこれだけ発展し続けてる。
メディアにも露出が増え、全国大会や世界大会の動画が出ればすごい!かっこいい!と言われ、各地のパフォーマーの演技で、ヨーヨーってこんなにすごい!と人々に感動を与えるように進化し続けてる。
このヨーヨー冬の時代といわれる時代から一体なにを行って、どうやって今の「競技」のヨーヨーがここまで成熟し、進化してきたのか。
次回をお楽しみに。