スレイプニル (2010/07/28 城戸慎也)

ヨーヨーストアリワインドの城戸慎也です。2009年の1A部門世界チャンピオン、リワインドではおもに商品説明、実店舗のカウンター、ヨーヨーの技術・メンテナンスサポートを担当しています。このコラムでは、2009年世界大会優勝をきっかけに発売した自分のシグネチャーモデル「スレイプニル」というヨーヨーが生まれるまで、を紹介します。

すこし長くなりますがお付き合い下さい。

そもそも自分がなんでヨーヨーやってるかをまずお話します。

自分は平成元年から三重県にずっと住んでいたわけですが、当然ブームの最先端をいくような大都会とはかけはなれていたので、ヨーヨーをはじめるきっかけになった「ハイパーヨーヨー」のブームは、かなり遅くに地元にきたと記憶しています。97年に発売されてから、自分がハイパーブレインを手にしたのは98年とか。1年遅れでスタートしたので、そこそこに上達してきたころにはすでにブームは終わってしまって、認定店もなくかなりさみしかったのを覚えています。しまいにはストリングもなくなり、コロコロからも情報が消えて、2000年くらいにはほとんどヨーヨーをしていませんでした。

そこから3年経って2003年ごろ、自宅にインターネットが開通しネットサーフィンを楽しんでいたとき、ふとしたきっかけで「ヨーヨー」と検索したのがすべてのはじまりでした。ディスプレイに映される、ワケのワカらない・でも興奮するトリックの数々、楽しそうにフリースタイルをやる人たち。それは間違いなく、はじめてロングスリーパーができたときの感動を越えていました。その時のビデオは「2003年全国大会(ジャパンナショナル)」のものです。冗談でもなく、その時アップロードされていたフリースタイルビデオは100回以上は繰り返し見ているほど夢中になりました。そこからスピンギアで兄と一緒にヨーヨーを買い、当時全国チャンピオン、後の世界チャンピオンであるスズキヒロユキ選手たちが運営する月1回のヨーヨー練習会「ヨー友in中部」へ通いました。自分はエクセデス、ハイパーワープヘヴィウィングと、当時からなかなか初心者には向かないムチャクチャなヨーヨーを買っていましたが、いま思えばここから理想のヨーヨーの構想はあったのかもしれません。
大会で優勝したいな、と本気で思い始めたのは2006年の全国大会、そして2007年の全国大会を観戦したころからです。生の迫力、目の前で展開される初披露されるとんでもないトリックたち、そしてビデオでしか見たことのないトッププレイヤーたちが目の前にいるという状況。1人1人のフリースタイルで、衝撃のあまり歓声を上げすぎて、2年とも翌日ノドが痛くてたまらないのをいまでも鮮明に覚えています。両方とも予選に出場して落選しただけに、「あのステージであそこまでできるなんて凄過ぎる」という気持ちが一番強かったです。

で、その頃には(というか2004年から既になんですが)自分の周りもヨーヨーにどっぷりハマり、ほとんど一緒に行動したり「三重練習会」を運営したりしました。(いまでは豊ヶ丘ヨーヨークラブという名前に変わり、自分を除くそのころのメンバーたちが、「ヨーヨー教室」のようなカタチで子どもたちにヨーヨーを教えています)
スレイプニルを生んだyoyorecreation(以下YYR)というメーカーは、この1年後に誕生することになります。

2007年の真ん中ごろ、ヨーヨーを復帰してからそこそこに色々なヨーヨーにもふれ、技術もそこそこになってきたころ。それまで別のヨーヨーを愛用していた自分にとって、突如目の前に現れた「G5」というフルメタルヨーヨーが、またも自分たちに衝撃を与えました。ちょうどフルメタルヨーヨーが流行しはじめたころで、兄がヨーヨーショップをスタートしたころだったと思います(兄は現在ThrowDeviceというヨーヨーショップも経営しています)。かなり評判のいいヨーヨーだったのと、ヨーヨー本体をあまり買わなくなってきていたのでひさびさに新しいのを買うか、ということで買ってみたらびっくり。ますますヨーヨーが楽しくなったのと、それにつられフリースタイルを本格的に組みだした時期です。そこから小型で超性能のフルメタル「888」が発売され、それもすぐさま購入し、「ここまで性能いいなら色々できそうだな」ということで、当時から得意だったブレインツイスターのコンボを少しずつ傾けていき、1ヶ月~2ヶ月かけて、いまの自分の必殺技であるホリゾンタルブレインツイスターが誕生しました。ここで暴露すると、一部の人は知っていると思いますが、その時「逆側でもできんじゃね?」と思い、ふとふとんの上でぽいっと投げてできたのが、立った状態から寝てブレインツイスターをするトリックになりました。

しかしこのG5と888で一番衝撃を受けたのはおそらく兄の健吾でしょう。このフルメタルヨーヨーの登場こそが、なによりYYR誕生のきっかけです(違ったらごめんなさい)。漠然と「ヨーヨーでメシを食っていきたいなぁ」と言っていた頃でしたが、○○が○○ならもっとスリープするはず、もっとホリゾンタルが続くはずと、目の前にある金属のヨーヨーを参考に図面をメモ帳に描き殴りまくりの日々を送っていました(現在も描き殴ってることでしょう)。そこからヨーヨーのための金属削りだしを承ってくれる業者を探しに探して、そしていまでもその時出会った業者さんと製作しているようです。まもなくプロトタイプの「スターダスト」が誕生しました。このころ2008年の1月頃だったかな?この時業者さんはヨーヨーが必要とする精度の高さに驚いたと言っており、そこからかなり厳密に、慎重に製作してくれ、国産の名に恥じないヨーヨーが生まれています。そのプロトスターダストは「作れば絶対勝てる」と確信できるほどにスゴイ出来でした。プロトが故にまだガタガタとブレて、見た目もキレイではありませんでしたが、その出来でも一度振ると誰もが驚きの表情を浮かべるほど。あの時プロトタイプのスターダストを振ったことがある方は「なにか違う」と思ったはずです。ヨーヨーの性能アップへの疑念が確信に変わり、売り出すことが決定すると、日本中から精鋭たちを集めたYYRのチームができました。自分もチームに入ることはでき、2008年全国大会にてセカンドプロトタイプを使用したチームメンバーのオオノカズマ選手が3Aで優勝し、またたく間に話題に。自分も2008年の中部地区大会・ニューヨーク国際大会で1A部門で優勝し、全国大会も準優勝。世界大会ではYYR第二弾リリース「スターゲイザー」のプロトタイプを使用したミヤモトヒロキ選手が優勝。そこから世界中に輸出されるようになり、いま国内ではストリングトリック系部門のシェア率トップを記録するまでに成長しました。スターゲイザーもその後一気に広まり、なによりその超回転力っぷり、当時画期的だった中心がフラットのプレーンな見た目も受け大好評に。しかし軸の脆さなどがあり長期に生産はされず、しかもそこから1年もの間、YYRは新作リリースをしない緘黙の時代が訪れます。

そんな2009年はつらいことも多かった年でした。去年優勝した中部地区大会でまさかの予選落ち、全国大会もかろうじで予選通過するも、優勝を狙っていたにもかかわらず5位入賞に終わりました。前回より順位が大きく落ち、自分の絶頂期はあの瞬間だったんだなという思いと、就職して仕事が始まったという現実が自分を攻め立てていたときです。しかし世界大会だけは毎年行くと覚悟を決め、会社にムチャクチャな直談判の末に社長からOKをもらえました。なによりここで行かなくなって、仕事で折れてまたヨーヨーをやめたりするのが怖かったからです。もちろん連休まで仕事は忙しくなりましたが、アメリカ滞在中の1週間に賭けるしかない。無理を通して他の人に迷惑をかけてまで渡米して、もうあとには引けないところまで状況を追いやりました。実のところ出国前まで「絶対に勝てない。良くて5位」と言われるほどにフリースタイルの出来は良くなくて、曲すらまともに決まってなくて、飛行機に乗ったときは何しにアメリカに行くんだっけというくらい悶々としていました。

そんな中、プロトタイプの「スレイプニル」が誕生しました。2009年全国大会の前です。まだ正式な名前もついてなかったんじゃないかなと思います。(実際、全国大会のフリースタイルビデオではヨーヨーの名前が空白です→■)

ここらへんからスレイプニルのお話です。

中部地区で優勝した記念に自分用のヨーヨー・いわゆるシグネチャーモデルを作ってくれるということで、スターゲイザーが正式発売した頃に希望のスペックを兄に尋ねられていたんです。その時自分は「幅がもっと広くていい」「普通より少し軽めがいい」「AとBの機種の中間のサイズ」というリクエストくらいで、あとは自分のクセやプレイスタイルを見てすべて寸法を決めてくれました。ふつうならありえない決め方ですが、そのころには進化しすぎていた兄のフリースタイルに対する観察力はどうやらホンモノだったようで、びっくりするくらいぴったりのサイズのヨーヨーが出来てきました。プロトタイプからの変更点は重量のみで、ほかはこの時のプロトタイプからほとんど変わりません。その当時としては結構大きめのサイズ(GM2くらい)で人を選ぶかと思いましたが、自分がこのサイズをリクエストした理由に「いまのヨーヨーは小さい、これが標準になるんじゃないかな」と思っていたというのがあります。その頃はいまのスレイプニルくらいの大きさは細かいトリックの邪魔になるから不要だという風潮がありましたが、そもそもこのくらいの大きさなら十分できるなというのが根拠。この大きさでできなかったら小さくても出来ない…という、なまじごちゃごちゃさせた細かいトリックが苦手な自分の性格が功を奏したようです。大きくて軽めでホリゾンタルが長くできて、スピード出してもガンガン回る理想の機種はこうして生まれることに。
結果的に軽めのヨーヨーになったのと、サビでスピードをガンガン出す自分のプレイスタイルから、名前に「速く、滑らかに動く」という意を持たせましたが、裏にはそういう話があります。事実、同じ時期にヨーヨーファクトリーからスーパースターが登場し、大きめのヨーヨーが標準となるいまの時代が到来しました。

つまり、5位に終わった全国大会の結果、絶望的な世界大会という状況を抱えながらスレイプニルを握っていました。作ってもらったけどどうしようか、これを最後の大会にするか、復帰した時期が遅すぎたなぁとか。このときほどヨーヨーを辞めていたことを悔やんだときはありません。もっとちゃんとヨーヨー練習してたら、もっと大会に出てたら、いまごろ悔い無く最後の大会だったかもしれないのになぁと。

でもこんな状況でも自分専用のヨーヨーが手元にある。これは紛れもなく事実で、これが大きな救いでした。しかもアメリカに到着してから、自分のことを応援してくれてる人から激励をくれたり。1週間に賭けるしかない最中、せめて優勝射程圏内に入るくらいの3分のフリースタイルひとつくらい作ってやると決めました。1週間でできる精一杯を詰めました。
そこからなんとか気力をキープすることに。「予選から出場なのは決勝までにステージに慣れるため」「パッドが剥がれたら休む時間」「負けた大会は伏線」「負けても来年くる。それも負けたら来年」「ここから勝ったらおいしいかも」数えだしたらキリがありません。でも必死ではありませんでした。負けても勝ってもまたこればいい。死ななきゃこれる。だからいまはできることができればそれでいい。

「もうどうにでもなれ」

2週間前は、絶対に勝てないと言われるフリースタイルでした。
1週間前は、二度目のニューヨーク国際大会で優勝しました。
2日前は、「思っていたのと何倍もうまい」と言われるとこまできました。
24時間前、まわりの声が「いけるかも」に変わりました。

大会に出ることを目指していたのに、結果は勝っても負けてもどっちでもいいという、一見矛盾した自分に甘えたスタンス。だからこそ、妙なプレッシャーもなく、自由気ままに練習できたのでしょうか。持ってきた300本のストリングは、最後には残り30本くらいになっていました。とくに最後3日間で200本はなくなり、パッドは枚数を覚えてきれないほど削りました。会場のステージの上で一番練習していた自信があります。直前になって慌てているだけで成功率が上がるわけがないと言われもしましたが、それでも「くつがえせたらいいなぁ」と思いながら練習しました。

本番3分前、それでも自分に自信はありませんでしたが、緊張もありませんでした。もちろん適度な緊張はありましたが、去年の初出場と比べるとものすごくラクな気分でした。あのステージで練習通りやるだけ。照明も地面も練習の通り見るだけ。周りは全員味方。失敗しても味方。だから大丈夫でした。

ああアイツかという目、ダレだあの人という目、応援してくれている日本勢の目、心配してくれている人の目が見える。応援に思わず答える、ポーズを取ればMCが合図をくれる、ジャッジが自分に視線を向ける、空気が一瞬静かになる。イヤホンやPSPで聴いていた曲が無事にかかって、しょっぱなに失敗しても立て直しやすいトリックが決まる。予定通りのゆるやかなコンボが決まる。最初のメインのコンボに突入。最後ちょっと失敗したけど気にしない。尺の中にトリックは全部収まった。できなかったトリックはない。全部決まれば優勝の射程距離に収まるように立てた構成だからと安心する。もう一度ゆるやかになってから、ちょっと不慣れなコンボを限界までスピードを落としてなんとかこなす。一番心配だったところクリア。精一杯の小さな音合せもクリア。失敗が許されない、一番練習したゾーンを頭の中でずっと「スピードを半分に抑える」と唱えながらクリア。スピード感が落ちるかもしれないけど、曲調にまかせる。新しいホリゾンタル。ここも精一杯スピードを抑える。首にひっかけるトリックも、ここで失敗しても痛くはないから大丈夫だった。サラバント。ちょっと古いかな?でも気にせず次にいく。
構成で一番迷った部分。溜めて溜めてなにしよう?ホントのホントに難易度を限界まで下げたトリック、でも大会本番なら盛り上がるギリギリのトリックを決める。流行ってたプロトリュージョンを取り入れてみるけど失敗した。だけど気にしても意味ないから次。トリック抜けて優勝できなくなってもいいから次。最後から2つめのコンボ。何万回もやってきたアトミックファイヤーのコンボ。いつも通りやれば絶対決まる。最後の1コンボ。寝ながらホリゾンタルブレインツイスター。変なこと考えなければ絶対行ける。いつもどおりの照明の見方で、いつもどおりの手の位置。さあ決まった。キメは、バインドからロケットじゃなくそのままのロケット。失敗してふつうのロケットになったんだけど、フィニッシュっぽいからいい。

ステージの前の自分とあとの自分はスゴく違くて、いざ決まると嬉しくて飛び跳ねまくりの自分がいました。この瞬間が欲しくて大会目指してたんだよなと、自分のやり方は間違ってないんかなと納得しました。

あっという間に表彰式がきて、最後に1位に自分の名前が呼ばれたときはよくわかんなかったというのが本音です。嬉しさは、ステージ降りた瞬間から大爆発でした。

そして2009年12月末、世界大会から4ヵ月後。YYRが1年の沈黙を破り発売した最初のヨーヨーが「スレイプニル」です。最初のプロトタイプ構想からすでに1年の時が経過していました。ここから続々と発売しているシグネチャーモデル「ドレッドノート」「メシア」なども同じように、もしくはそれ以上の期間をかけて製作されています。
第一弾のスターダスト、第二弾のスターゲイザーと同じく、yoyorecreationの名に恥じないヨーヨーに仕上がりました。世界大会が終わって、もう出来る限りずっと大会にで続けるんだと決めました。とりあえず目標はヨーヨー歴100年です。

というわけで、スレイプニルはこんな感じで生まれました。

関係各位、そして応援してくれた皆さんには感謝してもしきれません。

ここまで読んでくれて、ありがとうございました。ヨーヨーはひとつひとつに、かならずこんなバックグラウンドストーリーがあります。それは小規模であれ大規模であれ商業的であれ、どれも素敵なものに違いありません。ヨーヨーを作ること、売ること、魅せること。どれも皆が思っている以上に人生をかける価値があるんです。……ということが伝わってくれれば幸いです。

2010/07/28 城戸慎也

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